真言宗 共生庵

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対象を知る

「すべての行いに意味がある」ということは、個人的にその通りだと思います。

 

どちらかというと「意味を見出す」訳ですが。

その意味を「神仏からのメッセージ」と受け止めるなら、それは信仰心だと思います。

 

時に、都合よく使われたりする言葉なので、我々僧侶としては「何でもかんでも」この言葉で済ますのではなく、時に慎重に対象の機根に応じて使わなければなりません。

 

機根とは、単純にいえば「器」です。

器が出来てない人に、そういう言葉を投げ掛けても、意味を見出すことは出来ません。

もっと噛み砕いて話すか、あえて世間一般的な常識の話で留めるなど工夫が必要です。

 

宗教的な場面でなくても、これはよく取り組まれていることだと思います。

社員教育や、学校教育などの場面でも、対象の実力に応じた言葉選びやプログラムを組んだりします。

 

一番大事なのは、「対象に合わせる」ことです。

「器」「性格」「好きや嫌い」「悩み」「価値観」など、しっかり把握して、必要な言葉を掛ける。時には言葉ではなく見せることも必要です。

例え話が必要な場合もあるでしょう。

 

「対象を知る」為に観察やコミュニケーションなど駆使しますが、これを「何気なく、相手に探られてると思わせずに出来るか」は技術と経験が必要。

これは、どれだけ多くの人と意識的に関わったかで大きく変わると思います。

 

一目で、対象のそれらを見極めてしまう人も稀に存在します。

大概は経験によるものですが、不思議なことに直感(直観)的に分かる場合もあります。

しかし、繰り返しになりますが、これは稀な話。

 

僧侶は、カウンセラーの役割も担っています。

こういう知識や技術などを他業種から学び、臨床に活かしていくための自己研鑽が必要だと思います。

 

以前にも書きましたが、対象を知らずに「言いたいことを、言いたいように話すだけ」では、伝えてることにはならないのですから。