今日は、定期的に開催される勉強会に行ってきました。
高野山で修行し、濃厚な時間を過ごした訳ですが、まだまだ知らないことが沢山あります。
修行中に学ぶことは、本当に「表面的」なことだけです。
その奥にある「深秘」とされることは、僧侶としての肩書を得てから学んでいきます。
裏を返せば、学ぼうとしなければ学べないということです。
誰でも彼でも、「機根(教えを受けるに値する器、みたいな感じです)」を見極めずに無差別に教えるというのは確かに危険です。
しかし、学ぶ気がない僧侶は、表面的なことしか知らないままです。
そういう僧侶が世に沢山溢れてしまうのも問題ですし、それを野放しにしてしまうシステムなど、色んな意味で問題なように思います。
阿闍梨(あじゃり→真言宗では伝法灌頂(でんぽうかんじょう)という儀式を受けたらそう呼ばれます)は、実践者でもあり、研究者でもあります。
一般の方が知らないことを知っていて、それが生き様に反映されていてこその肩書きだと考えます。
そして、その知識を誰かの役に立てることが出来ないと、その肩書きに意味はありません。
表面的な肩書きを得たくらいで、偉ぶっている僧侶コスプレーヤーにはなってはいけない。
私も、阿闍梨としては不十分です。
今日学んだことを、明日誰かの役に立てられるように努力します。