拝むこと(修法)が、毎日の当たり前の行動です。
出張などで出来ない時は、出先で修法に代わる作法を行います。
一座拝むのに軽く一時間は掛かりますし、準備や片付けを含むと更に時間を取ります。
「本当は拝みたいのだけれども、時間がなかなか取れない」
これは、そこまでしてまで拝もうとは思わないということと同義と感じます。
仏様をお寺にお招きする時も、修法するときも拝み手である僧侶は「誓い」を宣言します。
その誓い(約束)を違えてしまっては、良い結果を繋ぐことは出来ないのです。
身の丈に合った信仰が大切とは思いますが、僧侶は拝むことが本分。
それを実践していくために、時間のマネジメントなど、色々工夫を凝らす必要があります。
工夫せず、ただ出来ないことを嘆いているだけでは勿体ない。
かつての私も勿体ないことを沢山していました。
「やるかどうか、それだけの世界だよ」
私の恩人の方の言葉です。
その一言がとても有難く、背を押してくださいました。