当時、京都の東寺はどちらかというと、活動拠点となっていました。
都が京都だったので、最重要拠点であったと思います。
先日、記載した「御修法」も京都にある本山を中心に厳修されているのもその名残りです。
当時の都人からすれば、高野山は「田舎」。
それもあって、京都で行われる行事にはなかなか参加は出来ませんでした。
歴史を振り返ると「都会」「田舎」のヒエラルキーは古くから存在していたようで、馬鹿馬鹿しいと思うと同時に面白くも感じます。
「高野山真言宗は最大派閥ですから」と、それでも堂々と振る舞っていた当時の僧侶たちを想像すると微笑ましい。
僧侶といえど、色んな人がいます。
オール真言宗とはなかなかいかないのでしょうね。