経験が積まれると、ある意味「万能感」が出てきます。
これに関しては自分は完璧であり、余裕である…のような。
誇りや自信を持って仕事することはとても大事と思いますが、大変危険な考えでもあると思います。
経験はとても大事ですし、そこから学ぶものは計り知れません。
しかし、慣れてはいけないと思います。
慣れは「慢心」や「油断」を生み出します。
また、新たに学ぶ意欲も薄れます。
経験を積みながら、常に「深み」を目指すべき。
特に僧侶はそうです。
目に見えることだけでなく、見えない「事柄」を対象にしているからこそ、常に慎重であるべきと考えます。
経を覚えているから。
作法が自動再生のように身体に染み付いているから。
沢山の修法を学んだから。
そんなことは自慢になりません。
やってたら勝手に覚えるし、学ぶだけなら誰でも出来ます。
作法も繰り返し行えば、誰でも「形は出来てしまう」のです。
けれども、「やれる」と「出来ている」は全く違います。
ただやっているのか、本当に出来ているのかは異なるのです。
それは常に自問自答しなければなりませんし、時には人からの指摘が必要になります。
それが目上でも、僧侶でなくても、若輩でも。
指摘に対して謙虚に、真摯に受け止められないなら、僧侶としての資質を疑います。
怒られたり苦言を言われるより、褒められた方が気分がいいのは理解出来ます。
しかし、優しくされたからといって、それが必ずしも優しいという訳ではありません。
もしかしたら、もう見放されている可能性だって有り得ます。
厳しいから優しいということだってあるのです。
厳しいということは、諦めずに向き合ってくれているかもしれません。
優しいから厳しいのです。
裸の王様にだけはならないようにしないと…。