葬儀などのあとには法話は付き物です。
しかし、都市部の葬儀会館などは時間が詰まっていることもあり、法話はしないことが多い。
法話は「布教」であり、通夜葬儀はその絶好の場である、と話している僧侶もいます。
通夜葬儀は布教の場なのだろうか…?
私個人としては、そうではないと考えています。
布教の場ではなく、あくまでも喪主様や親族縁者が故人を悼む場であるし、故人の旅立ちの場であると思います。
法話はその両者への悲しみなどのケアでもあり、労いのツールでしかありません。
布教の場にしてはいけない。
目的がズレてしまってるのではないかと思います。
結局、相手を見てない。
信者獲得や檀家獲得が先に立って、相手を見ていないと「布教の場」としか考えられないのかもしれません。
目の前には悲しみをはじめ、様々な感情を抱いて座っている方々がいます。
まずは、その感情をどうしたらいいのかを説く方が良いのではないでしょうか。
それを「有難い」と感じて頂けたら、それこそ有難いことです。
布教かどうかは、あくまで二の次でいいのではないでしょうか。
個人的意見でしかありませんが。