昔の僧侶は、寝る間を惜しんで研究していたと思います。
「これ、1代で成し遂げたの?」というレベルの研究成果が現代に伝わっています。
すべての時間を費やさなければ不可能でしょう、と修行仲間たちと話していました。
膨大な研究成果や考察が残っており、才能などの言葉では片付けられない。
失礼ながら、同じ人間とは思えない。
しかし、我々が幸運なのは、そういった偉大な先輩方から相伝されたノウハウが存在しているということ。
つまり、術のマニュアルがある状態です。
そのため、一定の修行行程をクリアしたら、素養がなくても「使えてしまう」わけです。
良くも悪くもですね。
真面目にやっていれば、更にそこから悩みが出てきます。
高いレベルの密教を実践したいと悩みます。
そのため、更に修行をしていく訳ですが、実践のみ行っていてはただのマニアか拝み屋です。
知識を深めるための勉強しなければならない。
つまり、マニュアルの研究です。
「何でそうなるの?」を突き詰めていきます。
「事相(実践)と教相(研究)の両方をバランス良く深めてこそ密教となる」と弘法大師空海も言われています。
インドの仏教観や哲学、密教の世界観、印や真言の意味などなど、研究のための前提知識を押さえていくだけでも相当な時間を要します。
既存の価値観を根こそぎ捨てて臨まなければ、まったく理解出来ない。
とても苦しい時間です。
「真面目にやれば、これほど辛いことはない」と偉大な先輩も仰っていました。
しかし、これにより「密教の核心」を得られるかもしれない。
それを得た者とそうでない者では、術の精度は格段に異なります。