お経は意味を知った上でお唱えするのがオススメと話しましたが、どんな内容が書かれているのかを知るだけで大丈夫です。
全部理解するには、人生かけて勉強するくらい難解です。
それこそ実現出来たら悟りの境地です。
お経は今でも様々な機関で研究されており、まだまだ謎の部分も数多くあります。
般若心経にしても、日本と海外では少し解釈に異なりがあります。
そんな海外の解釈で、私が「なるほど」と感じた所を紹介すると…
「以無所得故」という言葉についてです。
この文言に至るまで、
「無無明亦 無無明尽」
「乃至無老死 亦無老死尽」
「無苦集滅道 無智亦無得」
という感じで、同じ言葉が繰り返されるように続き、「以無所得故」で締めるという構成です。
「無明はない。また、無明が尽きることもない」
「老いと死はない。また、老いと死が尽きることもない」
「苦、集、滅、道(この4つで四諦という概念を指します)はない。智慧もなく、得るものもない。」という訳になります。
「以無所得故」は「得るものがないが故に」と訳され、次の文章に続きます。
ここが、ある仏教圏の国の方曰く、日本とは違い「智慧があるから、得られるものがない」と訳されているそうです。
私自身は、とても納得出来る言葉でした。
確かにそう。
「それ、知ってる」という思いは、新たな知識の獲得を妨げるもの。
単なる先入観です。
同じ話でも、全く同じではない。
時間も日も周りにいる人も、自分自身も「前回聞いたときとは違っている」のです。
先入観なく、フラットな視点で新たな発見を求めて同じ話を聞くことで、今までにない気付きが得られることもあります。
自分自身に既に知識があると思ったら、先がない。
常に新しい成長の種が、身の回りに溢れていることに気付けられるか。
とても大切な教えだと思いました。
どちらが「訳」として正しいのかはわかりませんが、昨日も書いたように般若心経の力は本物です。
清濁併せ呑む、ではありませんが、どちらの説も自身の血肉に変えていけると、更に良い力をもたらすのではないかと思います。