「宗教者は、祈っていれば加護がある、で何事も済ませる」というようなことを言われたことがあります。
実際、私も言うことがある。
無責任な言い逃れではなく、そうとしか言いようのないことが起こっている実感があるからです。
祈っていれば加護がある。
この言葉に、実感が湧きにくい理由は何か。
私なりに考えると…
信仰の篤い方と、まだ深くなっていない方では、仏様との距離感が違うことも1つなのではないかと思えます。
信仰の篤い方は、いつも身近に仏様を感じています。
私の場合を例に挙げれば、特に馬頭観音様はお近くにいらっしゃると感じています。
イメージではなく、本当にそうだと感じているのです。
出来事すべては、馬頭観音様からの何かしらのご加護かも。
日常の些細な良いことも、何も起こらずに過ごせることも。
目に見えたご利益だけが、ご加護ではないと思うのです。
1日を振り返ると、実は沢山のご加護を頂いていることに気付きます。
朝起きた瞬間から、夜に就寝するまで。
「お陰さまで、1日何事もなく終われました。ありがとうございます。」と、感謝し眠る次第です。
中には苦しいこと、辛いこともあるでしょう。
しかし、そこに仏様からのメッセージを感じられたら、どうすれば良いか考えることが出来ます。
「この出来事を通じて、何をお伝えになっているのだろう。」
反省し、行動を改める必要があるということか?
慎み深く行動しなさいということか?
と、考えることで改善に動き出すことが出来るかもしれません。
これも、ご加護の形の1つだと言えます。
祈っていればご加護がある、という言葉は「身近に感じていればご加護に気付ける」という言葉に置き換えてみると、イメージしやすいかもしれません。